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今月は松束主宰の紀行句があります。

字を書いてとどのつまりの更衣 松束 (0100601)

「そばが好き」君が囁く薔薇の下 松束 (0100602)

山鳩の尾羽うち枯らす雪の下 松束 (0100603)

夏雲や肩にぶらりと旅鞄 松束 (0100611)

 夏の雲に誘われて4日から一週間、北九州四県を一人でぶらりとまわった。梅雨前とあって、天気はめまぐるしく変わった。きょう以降の日記はしばらくはこのたびの句ということになる。

 「つぼ八」に酌交はす仲夏の宵 松束 (0100612)

 旅の第一日目、博多駅前の居酒屋「つぼ八」で、大学同窓の友人と一年ぶりに酌み交わした。「仲」とは…彼の叔父が「つぼ八」の元社長、星風も二十数年前、「つぼ八」関連の仕事に携わったことがあった。「宵」には「酔い」を掛けている。下戸でグルメでもない星風は少しの食べ物と少々の焼酎があれば十分。この日は駅前のホテル泊。

 走りつつ梅雨入の前の二仕事 松束(0100612)

 午前中、15年ぶりの自動車買替えのため、三十年ほど付き合いのあるディーラーまで、自動車を走らせる。午後、先日ポロリと抜け落ちた義歯の応急処置のため、歯科診療所まで自転車を走らせる。

 「梅雨入」は「ついり」と読む。なお、「走梅雨(はしりづゆ)」は梅雨入りの前、前触れのように空のぐずつくこと。

 焼酎や竹馬の友の飲みっぷり 松束 (0100613)

 実家泊は4日間。初日は11時半頃、実家着。すぐ近くに住んでいる中学まで一緒だった同級生に声をかけ、7時頃から2時間半ほど、ビールや焼酎を飲みながら、母も交えて歓談。彼は5月に生まれ古郷の大連に行った由。焼酎は暑気払いに飲んだことから夏の季語。

 幾度なく腰を伸ばして草むしり 松束 (0100613)

 実家での手伝いは、枝垂梅の枝切り。畑、花壇のくさむしり。畑、花壇、植木鉢の水やり。草むしりは夏の季語。夏は草がはびこりやすいので、頻繁にやらなければならない。土を返しながら根絶やしにする。
 偶さかに玉名の湯の香夏宴 松束 (0100614)

 6日〜7日、熊本県北部にある玉名温泉の「尚玄山荘」で開かれた、高校10回生の同窓会に出席。参加者は24名。卒業以来初めて会う者もいた。スリランカから駆けつけた友から、土産の紅茶を貰った。三次会まで付き合い、何時に床についたか覚えがない。

 「偶(たま)さかに」はまれに、たまにの意味。

 由布の地に流るる時よ閑古鳥 松束(0100615)

 7日、友人の車で二人、彼所有の大分県由布岳麓塚原にある約2000坪の農場に行く。由布岳は大分県中部、別府市と由布市との境にある標高1583メートル鐘状火山。豊後(ぶんご)富士とも言われ、万葉集には「木綿(ゆふ)の山」と詠まれている。

 広い敷地に10棟ほどの建物がある。サウナ用の建物もある。全部彼の手づくりだという。農場というより別荘と言った方が相応しい。郭公、鶯、牛、蛙などの鳴き声を聞きながら、高原のひとときを過ごす。昼食は彼の手料理。

 「閑古鳥(かんこどり)」は郭公(かっこう)のことで夏の季語。

 8日、81歳になる叔父の運転で佐賀県唐津まで約230kmのドライブ。孔子を祀る多久聖廟、第22回紫陽花祭りが開かれている唐津市相知町の見帰りの滝、松浦佐用姫伝説で有名な鏡山(別名、領巾振山ひれふりやま)、ラベンダー祭が開かれている天山スキー場などを訪れる。

 老鶯や多久聖廟の論語の碑 松束 (0100616)

 「老鶯」は年取った鶯のことではなく、夏に鳴く鶯のことで夏の季語。論語の碑の一つ「発憤忘食楽以忘憂不知老之将至=憤りを発して食を忘れ楽しみを以て憂いを忘れる老の将に至らんとすることを知らず」

 見帰りの滝に彩なす四葩かな 松束 (0100616) 

 「四葩」は紫陽花のこと。色が変わるので七変化(しちへんげ)、萼が四枚あるので四葩(よひら)ともいう。なお、花弁のように見えるのは萼。

 涙かも領巾振山の夏の池 松束 (0100616)

 松浦佐用姫伝説は肥前風土記をベースに作られた伝説である。即ち…宣化天皇の2(573)年、朝鮮半島での新羅の、日本府・任那侵入に際して、任那の請により、大伴金村に命じ任那に援軍を送ることになった。 金村は、兄・磐を筑紫防衛に、弟・狭手彦を朝鮮に送り込むことにした。救援のため出征することになった狭手彦は軍と船を整えるため、松浦の地にしばらく留まり、ここで土地の長者の娘・佐用姫と恋仲になり将来を誓い合って契りを結んだ。 しかし、甘い恋の日々は過ぎ去り、狭手彦は兵を率 いて任那に旅立つことに…。

 別れを惜しむ佐用姫は、玄界灘を見渡す領巾振山(唐津市・鏡山)に登り、遠ざかり行く狭手彦の船団の軍船に領巾を振りつづける。やがて、夫を慕うあまり領巾振山から松浦川河口の用姫岩へと飛び降り、衣干山で濡れた衣を乾かし、さらに呼子の浦まで追いかけ、ここで狭手彦の名を呼び続ける。なおかくれ行く船を追って、佐用姫はさらに加部島の天童山に登り船の影を探すが、海原にはすでにその姿は見えず、佐用姫は悲しみのあまり七日七晩泣き明かし、とうとう石と化してしまった。

 なお肥前風土記によれば、松浦佐用姫は弟日姫子(おとひめのこ)という名前になっている。また蛇も登場し、弟日姫子は領巾振山山頂にある池に身を投げたとされている。

 池の近くに「うき草の茎の長さや山の池」という虚子の句碑がある。