昨日は、日本橋の東京薬業年金会館で「中滝会」が行われた。
私が最初に就職した企業「中滝製薬工業株式会社」のOB会である。
「中滝」は、当時東証一部上場の三井系の製薬会社で、三井物産や東洋高圧(現三井化学)から 支援を受けていた。
お腹の薬「ワカ末」、風邪薬「ルピット」は大ヒットした薬だった。
団塊世代を超えた人々は一度はお世話になっているはずである。
医療用医薬品に手を付けた頃から順調でなくなり、三井系の支援を受けることになった。
結局は当時の鐘紡に吸収合併され、鐘紡の医薬品事業部門として生き残ることになった。
昭和47年、私が入社して5年目のことである。
従って、中滝会は昭和47年当時在籍した社員で構成されている。
私が入社した以後の新規採用もほとんどなかったので私が一番若い部類に入る。
70歳より若い人は殆どいないということである。
中滝会の発足当時は100名近いOBが集まっていた。
しかし、今年は52名だった。
毎年、鬼籍に入る人が増え、案内をする数も参加者も減ってきている。
私が入社したとき大変お世話になり、仲人までしていただいた先輩も昨年亡くなられた。
しかし、会社が消えて40年余りも立っているにもかかわらず毎年大勢のOBが集まる。
社員の絆が大変強かった証であろう。
OB会も上下の隔てもなく和気あいあいとした雰囲気である。
勿体ぶった挨拶もなく、鬼籍に入られた方への黙とうの後、世話人の乾杯だけである。
あとは散会まで勝手気ままにテーブルを回り、飲んだり、食べたりしながら昔を懐かしむ。
昔のお姉さま(お局様)は私より若い感じだ。
飲んでも、食べても、年寄りの集団なので高が知れている。
終わってもテーブルにはたくさんの食べ物が残っている。
パックを頂きお土産に持って帰る人も多い。
大いに飲んでもまだ飲み足りないのか、しゃべり足りないのか、2次会は神田の三州屋である。
年に一度の逢瀬なので話は尽きない。
2時に始まった会も2次会が終わったのは8時近かった。
来年も大勢の方と元気で会えるといい。
質素な看板
私が最初に就職した企業「中滝製薬工業株式会社」のOB会である。
「中滝」は、当時東証一部上場の三井系の製薬会社で、三井物産や東洋高圧(現三井化学)から 支援を受けていた。
お腹の薬「ワカ末」、風邪薬「ルピット」は大ヒットした薬だった。
団塊世代を超えた人々は一度はお世話になっているはずである。
医療用医薬品に手を付けた頃から順調でなくなり、三井系の支援を受けることになった。
結局は当時の鐘紡に吸収合併され、鐘紡の医薬品事業部門として生き残ることになった。
昭和47年、私が入社して5年目のことである。
従って、中滝会は昭和47年当時在籍した社員で構成されている。
私が入社した以後の新規採用もほとんどなかったので私が一番若い部類に入る。
70歳より若い人は殆どいないということである。
中滝会の発足当時は100名近いOBが集まっていた。
しかし、今年は52名だった。
毎年、鬼籍に入る人が増え、案内をする数も参加者も減ってきている。
私が入社したとき大変お世話になり、仲人までしていただいた先輩も昨年亡くなられた。
しかし、会社が消えて40年余りも立っているにもかかわらず毎年大勢のOBが集まる。
社員の絆が大変強かった証であろう。
OB会も上下の隔てもなく和気あいあいとした雰囲気である。
勿体ぶった挨拶もなく、鬼籍に入られた方への黙とうの後、世話人の乾杯だけである。
あとは散会まで勝手気ままにテーブルを回り、飲んだり、食べたりしながら昔を懐かしむ。
昔のお姉さま(お局様)は私より若い感じだ。
喜寿だって
飲んでも、食べても、年寄りの集団なので高が知れている。
終わってもテーブルにはたくさんの食べ物が残っている。
パックを頂きお土産に持って帰る人も多い。
大いに飲んでもまだ飲み足りないのか、しゃべり足りないのか、2次会は神田の三州屋である。
禿と白髪の大集団
年に一度の逢瀬なので話は尽きない。
2時に始まった会も2次会が終わったのは8時近かった。
来年も大勢の方と元気で会えるといい。
コメント
コメント一覧 (6)
今後永久に(とは言わないが)続くことを祈念します。
私も現役を離れ11年。その後当時の会社は再生機構にわたり、今や社名(1世紀にわたり日本のエネルギー、戦後復興の原動力になったというプライドは負の遺産になった?)すら消えてしまい残念。
その社員の交流が全くないのはその”認識”か”言いたくない”・・・。
悪い思い出よりも、良い思い出の方が沢山残っているので集まっているようです。
元々小さい会社だったので変なプライドを持っていなかったのも良かったかもしれません。
さいたま市見沼区に御在宅のようですね?
昭和5年生まれの私の父も85歳になり、病院に入ったり出たりしておりますが、大宮の見沼区南中丸で老いた私の母と2人で何とか生活しております。中滝・カネボウ製薬では、父の話では経理・総務の仕事をずっとやっていたはずです。母も盛岡にあった工場の研究室に務めておりましたが、父の転勤の際退社したようです。
当時の上司は工場長だった吾妻(東)根さん・・・だったと聞いております。
子供のころ何回かワカ末ビルにも訪れたことがありました。
中滝会なるものに父が出席しているのかは存じませんが、ここしばらくはその名は聞いておりません。
急な書き込みで失礼いたしました。
父は浦和の本社工場から春日部工場移転の際、毎晩夜遅くまで仕事をやっていた記憶があります。移転後もカネボウ側の体制で毎日遅くまで残業をしておりました。
その後カネボウの不動産部門に出向になり、定年前に
早期退職したようです。
もし何か中滝会に関する情報がございましたら、私のメールアドレスにご一報頂けたら幸いです。
きっと父も喜ぶと思います。
コメントありがとうございます。
米田支店長時代、私も一時東京支店に勤務しておりました。
課長は上野隆さんでした。
中滝会も年々参加者も少なくなってきました。
その上に、毎年会場になっていた東京薬業年金会館が閉館になったのでその後の会場探しをしているようです。
今年はコロナ禍の関係もあり中止になっております。
渋谷健一さんはご健在で中滝会の会長をやっておられます。
(米田さんは残念ながら亡くなられました)
中滝会が再開されましたら、片桐さんに連絡するように手配いたしますので、下記のアドレスに連絡先をご連絡ください。
minumasanjin@gmail.com
ますますのご健勝をお祈りいたします。
ご返事有難うございます。お顔は忘れてしまいましたが、お名前は記憶にあります。上野課長も解ります。私は営業事務をしてましたのでプロパーの方達の伝票整理他雑用係り、退社する時には亀戸のカネボウに移った年の1月です。共有する話が出来て嬉しいですね。渋谷課長に会いたいです😊
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。